

モンゴル族は、勤労、勇敢、悠久な歴史を持っています。7世紀頃には現在のモンゴル、ウルンベル盟
エルグン河の南岸の密林地帯に住んでいました。彼等は室 韋族から分離したものであり、「旧唐書」で
は蒙古室韋族と呼ばれ、歴史上では蒙古等と記述されていました。 8世紀頃、モンゴル族は西へ、現在
のオノン河、ヘルレン河の上流とヘンティ山の大草原に移住し、遊牧生活を行うようになりました。
力を蓄えたモンゴル族は勃興し、1189年に首領に推挙されたテムジンは16年間の苦しい戦いを経て、
モンゴル草原全体を支配するようになりました。1206年、モンゴルの全集落が集合し、テムジンを全モン
ゴルの最高の君主として大汗「チンギスハーン」に推戴することを決議しました。
チンギスハーンはモンゴル諸部族を統一してから、強大なモンゴル民族の共同体を形成しました。その
後、外に軍事拡張を進め、1227年、西夏を滅ぼしましたが、チンギスハーンは死去しました。息子オコタイ
はチンギスハーンの意志を受け継ぎ、南宋と連合し、1234年金を滅ぼしました。
1260年、チンギスハーンの孫フビライは大汗を自称し、1271年大都北京にて国号を元に改め封建式の
正当王朝を築き、1279年には、南宋を滅ぼし、全中国を統一しました。その後東欧とアジア大陸で軍事
的勝利を収め、世界に知られる軍事的・封建的な大君主国家を建設しました。しかしその国家も征服
した諸国民の強力な解放闘争にあい、封建領主達が互いの間で争うようになり、国家が崩壊する主要な
原因となりました。1368年、元朝は朱元璋が建立した明に滅ぼされ、モンゴル族はモンゴル高原に後退し
ました。
6世紀末頃、現在の中国東北部に満州族の強大な軍事的封建国家が建設され、モンゴルは占領されま
した。これにより、モンゴルは政治的独立を失い、清朝の植民地となり、国際的な帝国主義の支配下に
なりました。
1911年12月1日、モンゴル人民は200年以上にわたる清朝の支配から独立を宣言し、全権君主制国家を
樹立しました。しかし、中国と帝政ロシアは二国間で密約を結び、1915年5月のキャフタ会議でモンゴルを
中国宗主権下の自治国と宣し、1919年、中国軍閥は外モンゴルの自治を撤廃し、モンゴルを占拠しまし
た。1921年3月には、封建主義と植民地主義に対する革命運動が高まり、モンゴル臨時人民政府と人民
軍が創設されました。スフバートルの指揮したモンゴル革命軍は臨時政府の要請で到着したソビエトの
赤軍部族と合流し、モンゴルを占拠していた中国軍閥とロシア白軍の徒党を一掃し、1921年7月11日、
人民政府の樹立を宣言しました。 1992年、東欧の社会主義の崩壊にともない、モンゴルも資本主義政策
に転換し、それまでのモンゴル人民共和国からモンゴル国へとかわり、今日に至っています。 ページの先頭に戻る
モンゴル帝国の形成
イェスゲイの死後、一時は支配下の部民に見放されるなどの苦労を重ねつつタタル部やタイチウト氏、
ジャダラン氏などのモンゴル部内の敵対勢力と戦って独力で勢力を築き上げたチンギスは、やがてモン
ゴル部族の大部分を統合してそのハーンとなっていた。この力を背景にチンギスは、1203年に高原中部
のケレイト、1205年に高原西部のナイマンを滅ぼし、南部のオングト、北東部のオイラトなどの諸部族を
服属させてモンゴル高原の全部族を統合し、1206年に大(イェケ)モンゴル・ウルス、すなわちモンゴル帝
国を築いた。
これ以降、モンゴルはもともとモンゴル・ウルスに所属した遊牧民のみならず、チンギス・ハーンとその
子孫の歴代ハーンの統治する大モンゴル・ウルスに集った全ての部族の総称に転化する。
モンゴルは、モンゴル帝国の拡大とともにユーラシアの各地に広まったが、中央アジアやイラン、キプチ
ャク草原では先住の遊牧民であったテュルク系諸民族が大多数を占めたために、言語的にはテュルク化
し、宗教的にはイスラム化して、モンゴル高原に残ったモンゴルとの民族的な繋がりを失っていった。
モンゴル帝国
モンゴル帝国は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・ハーンが1206年に創設した遊牧国家。
中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス(Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル国」と称した。
チンギスとその後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア
(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ビルマ、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア
大陸の大部分にまたがる史上最大の帝国を創り上げた。当時の世界の全人口の約半数が支配下と
なった。厳密には面積において史上最大の帝国はイギリス帝国であるが、当時の世界はアジア・ヨーロ
ッパであったこと、領域に中国等が含まれていたこと等から史上最大の帝国である。
モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封された
チンギス・ハーンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなし
た。中国とモンゴル高原を中心とする東アジア部分を支配した第5代大ハーンのクビライは1271年に、緩
やかな連邦と化した帝国の、大ハーン直轄の中核国家の国号を大元大蒙古国と改称するが、その後も
大ハーンを頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向か
うが、チンギス・ハーンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで中央ユーラシアの各地に君臨
しつづけることになる。
ケレイト(Kelait)
ケレイトは、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原中北部のハンガイ山脈付近に割拠していた遊牧民
の部族集団である。漢字表記では「客烈亦」、「怯烈」、「怯烈亦」など。
ペルシア語資料では ????? Kir?yt などと表される。
発祥は定かではないが10世紀に契丹の遼が南に興るとこれに服属した。遼の下で東西交易に参加して
いたために西方からネストリウス派のキリスト教が伝わり、1007年に部族をあげてネストリウス派に改宗
したとされる。また、ウイグルにウイグル文字を学んで自分たちの言葉を記録する手段を早い時期に身に
つけていた。このためにケレイトの種族はモンゴル系ともテュルク系ともいわれる。
12世紀には、遼に代わった女真の金の支配のもと、モンゴル高原の中央部に実質上の独立勢力を築き
上げていた。11世紀から12世紀のケレイト王国の情報はネストリウス派キリスト教徒のネットワークを
通じて西アジアにも伝わっていたことが明らかにされている。ここから、この頃ヨーロッパで流布された
キリスト教国家プレスター・ジョンの王国のモデルの一つであったと考えられている。
ナイマン(Naiman)
ナイマンは、チンギス・ハーンのモンゴル統一以前にモンゴル高原に割拠した遊牧民の部族集団。
漢字表記は「乃蛮」である。その起源についてはまだ判明されていないが、ウイグルとよく似た始祖説話を
もっていたこと及び言語的にテュルク諸語に属する言葉を話していたことからウイグルと同祖を持つ鉄勒
(テュルク)の一派の後裔であったと考えられている。
現在カザフスタン東部で40万人以上のナイマン族が居住している。
オイラト(Oirad, Oyirad)
オイラトは、モンゴル高原の西部から東トルキスタン(新疆)の北部にかけて居住する民族。
オイラト人と呼ばれる人々は、15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合で
あったオイラト族連合に属した諸部族の民族である。彼らは近代中華人民共和国、モンゴル国の一部に
なった後、モンゴル民族の一員とみなされており、西モンゴル人(Baruun Mongol)と呼ばれることが一般的
になっている。しかし、それは事実とは違うのである。本来はオイラト族である。ロシア連邦ではカルムイク
と呼ばれ独立した民族とされている。現在の人口はおよそ20万人から30万人。
ページの先頭に戻る
モンゴル人民共和国
モンゴル人民共和国はモンゴルが1924年から1992年まで使用した国号。
モンゴル語ではБугд Найрамдах Монгол Ард Улсと表記し、略称はБНМАУである。
1921年、ボドー、ダンザン、ドクソムらの指導、スフバートルの軍事的活躍とソ連の赤軍の支援で中華民国から独立したモンゴルは、1924年に活仏(化身ラマ)の死に際して、コミンテルンの指導もあり、モンゴル人民革命党による一党独裁の社会主義国を宣言した。これがモンゴル人民共和国で、ソ連に続く世界で2番目の社会主義国家であった。
その後は一貫してソ連一辺倒の政策を続け、「ソ連の16番目の共和国」とまで呼ばれた。かつて東側陣
営に属する社会主義諸国が、「ソ連に従属する衛星国」と表
現されることもあったが、この衛星国という表現は、モンゴル学者オウエン・ラティモアがこの時期のモン
ゴルの国際的地位を表現する用語として使用したものである。
外政では、1939年にはノモンハン事件(ハルハ川戦争)で赤軍と共に日本(関東軍)と戦い、第二次世界
大戦末期の1945年8月にはソ連と共に満州国に侵攻して勝利した。1946年には中華民国からも独立を承
認され、1961年には国際連合への加盟も果たした。この頃から激化した中ソ対立でもモンゴルはソ連を
支持し、ワルシャワ条約機構に加盟したモンゴル国内にはソ連軍部隊が展開して、中華人民共和国から
のモンゴル防衛と有事の際の北京攻撃の役割を担った。
国内では1930年代以降ホルローギーン・チョイバルサンやユムジャーギィン・ツェデンバルによる独裁体
制を取った。ソ連のような重工業の発展は起こらなかったが、首都のウランバートルでは軽工業の建設
と人口の集中が発生し、それ以外の地域では牧畜業の集団化が起こった。コメコンの加盟によりソ連の
経済援助も受けたが、人口の希薄さなども災いして大きな経済発展は起こらなかった。
また、文化面でもソ連化を進め、モンゴル語の表記を、チンギス・ハン時代からのモンゴル文字から、ロシ
ア語と同じキリル文字への切り替えを強行したほどであった。また、社会主義体制のエリート層の多くは
ソ連への留学を行った。かつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンについては、社会主義思想に反する
という理由から、これを教えることを禁じ、またチンギス・ハンの子孫である約 1500人を数年間の内に
処刑した。このため、処刑を免れる為に子孫であることを隠して生き延びた人々も数多い。
また、帝国時代から続く家系図は、社会主義の平等思想に反することから、多くが破却された。
1980年代後半、モンゴルでもソ連のペレストロイカが波及して民主化運動が高まり、ジャムビィン・バトム
ンフ指導による人民革命党の一党独裁政権は1990年に崩壊し、複数政党制による自由選挙で行われる
大統領制と議会制を導入し、人民革命党と民主化勢力の連立政権へ移行した。その後、新体制にふさわ
しい国名改称が提案され、「モンゴル国」と改称し、社会主義の放棄を実行。モンゴル人民共和国は名実
とともにその歴史的役割を終えた。
ダムディン・スフバートル(Damdin Sukhbaatar)
スフバートル、1894年2月2日 - 1923年2月22日)は、モンゴルの革命家、軍人。遊牧民の子として生まれた。スフは斧、バートルは英雄という意味である。ジャミヤン公の私塾で読み書きを学んだ。
ボグド・ハーン制モンゴル国の国軍に入隊した。1919年頃は印刷所で植字工もやっていたといわれる。
1918年、中国軍が外モンゴルに侵入してキャフタ条約で獲得した自治を撤廃すると、スフバートルは独立運動に参加する。さらに1920年10月、今度は中国軍の無力に乗じてウンゲルン率いる白軍が根拠地を求めてクーロン(庫倫、現ウランバートル)に入り、中国軍を駆逐した。ウンゲルンの政治は苛酷を極めたため、モンゴルの民衆は憤激し、完全な民族の独立を求めるようになった。
1920年、スフバートルやチョイバルサンらはボドー、ダンザン等を中心にモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成、スフバートルは軍事部門を担当し、モンゴル人民義勇軍を編成する。
太同年、モンゴル人民党の援助要請に応じた赤軍と共にまず、駐屯の中国兵を攻撃、キャフタを占領、
ついでクーロンのウンゲルン率いる白軍を赤軍とともに撃滅した。1921年7月、人民政府樹立後は全軍
司令官(1922年12月まで国防大臣兼任)に就いた。
ホルローギーン・チョイバルサン(Khorloo Choibalsan)
チョイバルサン(1895年 - 1952年1月26日)は、モンゴルの革命家、軍人。
クーロン(庫倫、現ウランバートル)のロシア領事館付属学校に入学して、1914年にロシアのイルクーツクに留学。1918年に帰国して独立運動に参加、 1920年にボドー、ダンザン、ドクソム、スフバートルらと共にモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)の結成に携わる。
1924年のモンゴル人民共和国成立以後は国家小会議議長に、1929年に人民委員会主席に、1936年に内務大臣に、1937年9月に全軍総司令官、同年12月、首相代理に任命され、1939年から1952年に没するまで首相兼外務大臣を務めた。1936年から1938年にかけて大規模な粛清を行った彼は「モンゴルのスターリン」という異名を持つ。この粛清は1936年まで首相を務めたゲンデンらが、対日宥和政策を取ろうとした点、スターリンからの当時モンゴル国内に約11万人いたチベット仏教僧を打倒せよとの助言を拒否した点からスターリンと対立し、モンゴル首脳部の政策転換、チベット仏教僧の排除を行うためソ連側が計画した。チョイバルサンはこの計画を受けて、これを自らの独裁権確立に利用しながら、多くの国民を日本のスパイとして処刑した。
1936年、ソ連と相互援助議定書を締結して赤軍(ソ連軍)の駐留を認め、ソ連の衛星国としてのモンゴル
の立場を築くと共に、自国軍の近代化を推し進め、 1939年のノモンハン事件では赤軍の支援を得て満州
国との国境紛争で日本軍(関東軍)に勝利した。また、第二次世界大戦末期の1945年8月9日に始まった
ソ連の対日宣戦では、ソ連と共に日本に宣戦布告をして満州国に侵攻し、ソ連軍の勝利に貢献すると
共にモンゴル人民共和国の国際的認知の第一歩を記した。この際に得られた日本軍や民間人の捕虜は
モンゴル国内での強制労働にも使役され(シベリア抑留)、犠牲者を出した。
戦後の1945年10月には独立を問う人民投票を行って100%の賛成率を演出し、1946年には中華民国に
自らの独立を認めさせた(後に撤回)。
ユムジャーギィン・ツェデンバル(Yumjaa Tsedenbal)
ツェデンバル(1916年-1991年)は、モンゴル人民共和国の政治家。
1940年、24歳の若さで、モンゴル人民革命党第1書記に就任。
チョイバルサンの死後、ソビエト連邦でのスターリン批判の影響によりチョイバルサン批判・チンギス・
ハーン批判を行う。それに反対したとしてニャムボー、トゥムルオチルなどが民族偏向主義者として追い
落とされた。
1960年、憲法改正を行い、国民の権利を幅広く認める反面、社会主義体制を支持する義務を国民に科し
た。また、ダルハン市を建設した。
1960年代から表面化した中ソ対立ではソ連を応援し、1960年代に中華人民共和国を批判する書簡を送
ったり、1970年代後半にも中国の脅威に対して、「火薬を乾かしておく必要がある」と話したという。
この結果、ソ連に癒着した政治体制が続くこととなった。
1980年代は、記憶喪失症が進行中にもかかわらず書記長をつづけた。党政治局会議議長を務めなが
ら、同じことを繰り返し聞きかえしていたという。モロムジャムツやマイダルが傍らにいて補佐をすること
になった。1984年、党書記長を辞任した後、急死。痴呆症が原因だったのではないかとの専らの噂であ
る。ロシア人の女性と結婚するなど、モンジャムビィン・バトムンフ(mn: Жамбын Батм?нх
1926年3月10日 - 1997年4月14日)は、モンゴル人民共和国の政治家。モンゴル人民革命党元書記長。
「モンゴルのゴルバチョフ」と呼ばれる。
●1974年 ツェデンバルが党第1書記を辞任し、人民大会議幹部会議長に就任。
バトムンフが首相の座を得る。
●1984年 ツェデンバルが更迭され、党書記長に就任。
●1986年 北朝鮮訪問。金日成が平壌国際空港に出迎えに現れ、金日成の銃撃・死亡説を否定。
●1987年 経済改革に着手。独立採算制を導入。
●1988年 歴史見直しに着手。北朝鮮・金日成が訪問。
●1990年 モンゴル民主化運動により書記長辞任 ゴル国民の評判は芳しくなかった。
ページの先頭に戻る
チンギス・ハーン以前のモンゴル
モンゴルの名をもった集団が最初に歴史上に現れるのは7世紀のことで、中国の記録に室韋の一派で
ある「萌古」「蒙兀」「蒙瓦」などという漢字をあてられ、モンゴル高原の東端に住むに過ぎない小集団で
あった。金末期頃に東部蒙古の大勢力部族であった韃靼(タタル)族は同系統であったという。後の
モンゴル帝国の時代にまとめられた『元朝秘史』や『集史』に記録された始祖説話から、北東アジアの森
林地帯の人々と北アジアの草原地帯の人々が混ざり合って部族を形成したらしいと考えられている彼ら
は、遊牧民契丹の王朝遼が、もともと狩猟民でモンゴル高原への強い影響力をもてない女真の金によっ
て滅ぼされ、高原に権力の空白が生まれた11世紀頃には、モンゴル高原の中部から東部にかけて広が
っているモンゴル諸語を話す諸部族のうちのひとつであった。
やがて、権力の空白を突いて成長し始めたモンゴル部族は、ウリヤンハイ部族やジャライル部族などを
隷属させるようになり、12世紀の中頃にチンギス・ハーンの曽祖父にあたるカブル・ハーンを最初のハン
に推戴して国家らしいまとまりを形成し始めた。ここでいう「部族」にあたる、遊牧民の寄り集まった政治体
のことをモンゴル語でウルスといい、モンゴル部族はモンゴル・ウルスと称していた。カブル・ハンの死後、
モンゴル部族の突出を警戒した金の策動により第2代ハンのアンバガイはタタル部族によって捕らえられ
て処刑されるとモンゴルの統一は揺らぎ、次の第3代クトラ・ハンを最後にモンゴル部族にはハンが立たな
くなって、モンゴル・ウルスは12世紀後半には分裂の危機に陥った。ハンの称号を持たず、キヤト氏族の
一首長に過ぎなかったチンギスの父イェスゲイ・バートルは、タタル部族と盛んに戦って勢力を広げ、モン
ゴルの再統一を進めつつあったが、チンギスが幼い頃に若くして死んだ。『元朝秘史』はタタル部族に
毒殺されたとしている。
チンギス・ハーン
チンギス・ハーン(1162年頃 - 1227年8月18日)は、モンゴル帝国の初代大ハーン(在位1206年 - 1227
年)。一代で大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一し、
中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げた。その帝国がチンギスの
死後百数十年を経て解体した後も、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄
としてチンギス・ハーンは賞賛された。とくに故国モンゴルにおいて、チンギス・ハーンは神となり、現在の
モンゴル国においては国家創建の英雄として称えられている。生年は異説あり。
タタル(タタール)
タタールあるいはタタルは、北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い
地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々
によって用いられてきた民族名称である。
タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は
異なる。現在では、ロシア連邦内のヴォルガ川中流にあるタタールスタン共和国に住むタタール人、ウク
ライナ領のクリミア自治共和国に住むクリミア・タタール人などが自称の民族名としてタタールを称する。
中国の少数民族のひとつタタール族(塔塔?族 t?t??rzu)は、中国領に住むタタール人のことである。
語源は古テュルク語で「他の人々」を意味した Tatar(タタル)で、伝統的にはもっぱら、中国語では韃靼
(だったん)、アラビア語では???(タタル)、ペルシア語では ????? (タータール)、ロシア語では Тата
р(タタール)、西ヨーロッパの諸言語では Tartar(タルタル)と呼ばれてきた。日本では、古くは中国から
伝わった韃靼を使っていたが、現代ではロシア語風にタタールと呼びかえることが一般的である。
ページの先頭に戻る
モンゴル帝国以降のモンゴル
モンゴル高原の側では、中国を支配したモンゴル帝国(元)がモンゴル高原に北走して北元となった後、
北元のクビライの王統に従った諸部族と、これから離反してオイラト部族を中心に新しい部族連合を形成
した諸部族の二大集団に分かれた。後者はモンゴル語でドルベン・オイラト(四オイラト)と呼ばれるように
なり、前者はこれに対してドチン・モンゴル(四十モンゴル)と称される部族集団となる。明は、四十モンゴ
ルを韃靼(タタールの漢訳名)と呼んだため、この時代のモンゴルのことはタタールと呼ばれることが多い
が、自称はモンゴルのままであり、清代には蒙古(モンゴル)の呼称が復活する。
北元期のモンゴルは、オイラトや明、中央アジアのイスラム化モンゴル人であるカザフやモグールと抗争
しつつ独立勢力として存続したが、モンゴルは17世紀に相継いで満洲人の清に降り、またオイラトを支配
したジュンガル部族が18世紀に清に滅ぼされるに至って、ほぼ全てのモンゴル系部族が清の支配下に入
った。
20世紀の初頭に清が崩壊すると、北方から侵食してきたロシア帝国の影響を強く受けるようになり、ロシ
アが共産主義革命を経てソビエト連邦となると、もともと清の支配が比較的緩かった外モンゴルのハルハ
諸部族がソ連の影響の下で中国から独立して、共産主義のモンゴル人民共和国を建てた。
これが現在のモンゴル国となる。一方、内モンゴルの諸部族は中国の領内に残り、現在の内モンゴル自
治区となった。また、新疆ウイグル自治区や青海省に多いオイラトは、中華人民共和国の成立にともなっ
て蒙古族の民族籍を与えられ、再びモンゴル民族の一部とみなされるようになった。モンゴルの遊牧民が
居住に使う移動式天幕住居をモンゴル語でゲルと呼ぶが、内モンゴル自治区では公用語が中国語であ
るため、パオ(包)と中国式に呼ばれる例も多い。
クビライ(Qubilai, Khubilai)
クビライ( 1215年 - 1294年)は、モンゴル帝国の第5代大ハーン(在位1260年 - 1294年)。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では ??????? ????Q?b?l?? q?'?n など書かれる。漢風の廟号は世祖、諡は聖徳神功文武皇帝。モンゴル語の尊号はセツェン・カアン(セチェン・ハーン)。
大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では Хубилай хаан (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも非常に多い。
クビライその即位にあたる内紛からモンゴル帝国はカーンを頂点とする緩やかな連合体となり解体が
進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心を中国の華北に移動させる
など様々な改革を打ち出し、彼の時代以降、カーンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に
東アジアを支配する元(大元ウルス)に変貌した。
オイラト(Oirad, Oyirad)
オイラトは、モンゴル高原の西部から東トルキスタン(新疆)の北部にかけて居住する民族。
オイラト人と呼ばれる人々は、15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合で
あったオイラト族連合に属した諸部族の民族である。彼らは近代中華人民共和国、モンゴル国の一部に
なった後、モンゴル民族の一員とみなされており、西モンゴル人(Baruun Mongol)と呼ばれることが一般的
になっている。しかし、それは事実とは違うのである。本来はオイラト族である。ロシア連邦ではカルムイク
と呼ばれ独立した民族とされている。現在の人口はおよそ20万人から30万人。
ジュンガル
ジャンガルはチョロス部を中心とするオイラトの部族連合体である。17世紀から18世紀にかけてオイラト
の主導権を握り、イリ地方を本拠地に歴史に残る最後の遊牧帝国を築いたが、最終的に清の乾隆帝の
親征軍に敗れて壊滅させられた。
ハルハ(khalkh)
ハルハとは、モンゴル国の多数派民族の名称である。モンゴル語とは、ハルハの言語を指し、国土が
広い割には方言差が小さい。モンゴル国において、はっきりとした少数民族は、カザフ人くらいのもので
ある。ウラン・ウデの言葉を基準にするブリヤート人は、少数民族扱いされてはいるが、ハルハ語とほと
んど単語が重なり合っている。
モンゴル国では、出願書類にも出身民族を記入する欄があるが、ウランバートルにはハルハ以外の市民
も大勢暮らすし、そもそも出身民族が意識される機会も普段はない。
ウイガル(Uigar)
ウイグルは、古代北アジアで活動したテュルク系遊牧民。この民族名称を自称する人々はのちに中央
アジアに移動し、15世紀頃まで存続していた。また、この民族名は、20世紀に東トルキスタン民族運動に
おいて、テュルク系のオアシス定住民が、1934年に古代北アジア遊牧民の呼称を借りて、自分たちの
呼称として採用し、現在に至っている。
本項では主として古代北アジアのテュルク系遊牧民とその直系の後裔である中世中央アジアのウイグル
について主として扱い、近現代の東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)のトルコ系オアシス定住民である
現代ウイグル民族については「ウイグル人」の項目に譲る。
カザフ ( Qazaq)
カザフは、中央アジア西北部のステップ地帯に広がって居住するテュルク系民族。その居住地域は
カザフスタンと呼ばれ、カザフ草原、カザフ高原が位置する。ソビエト連邦時代はカザフ・ソビエト社会主
義共和国、ソ連崩壊後はカザフスタン共和国となっている。
カザフスタンにおよそ800万人が住んで同国人口の半数を占める他、中国の新疆ウイグル自治区北西部
に約130万人が住む。新疆では哈薩克族(ハザク族、カザフ族)と呼ばれ、中国の55少数民族のひとつに
数えられており、イリ・カザフ自治州はカザフ人の自治州となっている。その他、アクサイ・カザフ族自治
県、バルクル・カザフ自治県(zh:巴里坤哈?克自治?、モリ・カザフ自治県(zh:木?哈?克自治?)といった自治
県が存在する。モンゴル国では最西部のアルタイ山脈周辺に分布し、バヤンウルギー・アイマクはカザフ
人の自治州となっている。カザフ語による自称はカザク ( Qazaq) で、
他称のカザフ(Казах, Kazakh) はロシア語名に基づく。カザクとは、「独立不羈の者」「放浪者」
を指すテュルク諸語の言葉で、元来はもともとの部族集団などから離脱して独立した集団を形成した
遊牧民のことを指し、ロシアのカザーク(コサック)と同一語源である。おそらくは混同を避けるために、
20世紀前半にソビエト連邦によってカザフ民族として識別されるまで、カザフは誤ってキルギスと呼ば
れていた。
カザフ人のほとんどは元来遊牧民で、20世紀初頭までは人口のほとんどが遊牧生活を行っていたが、
ソ連で1930年代に大規模な定住化が政策として行われた結果、現在は都市民・農耕民となっている。
しかし、定住化と近代化を経てもカザフ人のジュズ、部族、氏族に対する帰属意識はよく残り、カザフスタ
ンの政権内の人事にも影響を与えているという。
ページの先頭に戻る
社会主義
社会主義(英:socialism)とは、資本主義の自由放任によって生じる不平等に対して、国家、あるいは社会
が何らかの干渉を行い、公正を実現しようというものである。その具体的方法や干渉の度合いには様々な
違いがあり、それゆえ空想的社会主義、社会民主主義、マルクス主義といったように、数多くの分派が存
在する。ケインズ主義も社会主義の一種とみなす見方がある。協同組合も利潤追求の資本主義に基づく
企業とは異なるという意味で、一種の社会主義であり、空想的社会主義者であるロバート・オウエンを
源流とする。後述する通り、小泉改革以前の政府による規制・統制が多々ある日本の体制を、
日本型社会主義と呼ぶ事もある。
日本における社会主義は、いわゆる「ソ連型社会主義」を指す場合が多い。配分の手段・方法を、社会の
成員全体で共有することによって社会を運営していく体制である。資本主義経済における階級的不平等
の克服を目的とし、その手段として生産手段の社会化を実現することを主張している。社会民主主義が、
経済的平等と共に政治的平等をも同時に追求するのに対して、社会主義は経済的平等の実現を優先
させる点に特徴が見出される。
一方、欧州では単に「社会主義」といった場合は社会民主主義のほうを指す。例えば「社会主義インター
ナショナル」は社会民主主義政党の国際団体である。(かつての民社党も社会主義インターナショナルに
所属しており、日本で「社会主義」と言えば「ソ連型社会主義」と見なされる状況を憂慮しており、党の要綱
から「社会主義」の文字を外す意見が出るほどであった)。
また、当初のマルクス主義における社会主義共産主義思想における社会は、どの段階においても民主を
前提に構成され、特定の権力が民衆に圧力を与えない平等で安定した社会を目指したことが前提とされ
ていた。19世紀以降に産業革命後の資本主義社会において過度の競争により、貧富・階級差が社会に
生じ、生産力を持たない労働者階級の立場が悪くなることを受けてどうしたら労働者階級の人々が立場を
保障され、平等に暮せるかということに対して生まれた思想であり、当初は労働者階級を対象とした思想
であった。その中では、まず資本主義社会があってその資本主義社会が完全に成熟された状態で、生産
手段の社会化を行う社会主義社会となり、さらに社会主義社会において経済や生産技術が発達しきった
段階で共産主義社会へ到達するとされ、社会主義は資本主義が発展しきった後の共産主義へ成長する
過程の段階であるとされていた。
以下においては、日本において単に社会主義と呼ばれる思想を(ソ連型社会主義を中心に)解説する。
他の社会主義については、右記の社会主義の一覧を、ソ連
型社会主義の本家ソ連における状況はソ連型社会主義の項を参照の事。
形成と展開
モンゴルでの社会主義はヨーロッパや北アメリカにおける近代資本主義社会の形成、特に産業革命の進
展と市場経済の発展に伴って顕在化してきた貧困や階級対立といった社会的な矛盾や社会問題に対す
る批判の思想・原理として生成し、構築されてきた。
社会主義の考え方の背景には、共同体が解体される以前の相互扶助的な村落社会への憧憬が存在す
ると指摘される。しかしながら、そうした村落社会に見られる家父長的な支配・服従への反発も同時に存
在する。このことから、平等で豊かなユートピアとして過去を幻視する視点が、社会主義には秘められて
おり、そこから未来への展望を拓いていく側面があると言えるだろう。
社会主義のそうしたユートピア的な側面は、19世紀前半において、ロバート・オーウェンやサン=シモン、
シャルル・フーリエらが提唱した社会主義の構想にみることができる。かれらの社会主義は、後にカー
ル・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスらから「空想的社会主義(=ユートピア社会主義)」と呼ばれた。
また空想的社会主義とは別に、フランスのバブーフやブランキなどの社会主義や、亡命ドイツ人のヴァイ
トリング、ヘーゲル左派から出たモーゼス・ヘスの社会主義など、空想社会主義以降に登場し、マルクス
に先行した社会主義は、社会思想史上「初期社会主義」と呼ばれる。プルードンやバクーニン、クロポトキ
ンも社会主義者だが、彼らは初期社会主義とは別に無政府主義(アナキズム)とされている。
社会主義を一個の理念体系として構築したのは、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスである。
「科学的社会主義」と呼ばれたかれらの唱えた社会主義は、それまでの多くの社会主義が持っていた階
級闘争や労働組合運動、政治運動についての理論に、資本主義の分析を理論的武器として提供し、ヨー
ロッパを始め全世界的規模で広範な影響力を持った。当時のさまざまな社会主義の潮流のなかで、マル
クスとエンゲルスは、ロレンツ・フォン・シュタインの社会主義と共産主義の当時の解説本を参考に、かれ
ら自身を「共産主義者」として規定した。両者の手になる『共産党宣言』には、プロレタリアートによるブル
ジョア的生産関係の変革と階級差別の廃止が謳われている。
ウラジーミル・レーニンの指導したロシア革命の結果、世界で最初の社会主義国家であるソビエト社会主
義共和国連邦が誕生し、第二次世界大戦後は、東欧や東アジアなどに次々と社会主義国家が誕生し
た。しかし、ソビエト社会主義共和国連邦や東欧の社会主義国家は1990年代に次々に崩壊し、現在、
社会主義を称える国は中華人民共和国、ベトナム、ラオス、キューバ、北朝鮮などに限られており、その
中でも中華人民共和国などは経済的には市場経済原理による資本主義体制を採用している。
一方、自由民主党による長期政権下の日本を、「世界で最も成功した社会主義国」と称する事がある。
自由民主党は資本主義の擁護と発展を基本理念とし、マルクス主義や社会民主主義を支持する日本社
会党や日本共産党を抑えて、1955年の結党以来ほぼ一貫して政権与党の座にある保守政党である。
しかし、自由民主党は資本家だけではなく農林漁業者や自営業者、さらに賃金労働者まで広範囲にわ
たる支持層を得ていたため、各階層への漏れのない利益配分をする必要があった。
そこで、「自由民主党は強力な官僚機構が持つ行政指導・調整能力を利用して、資本家の意向を政策展
開により強く反映させながらも、アメリカ合衆国などと比較すると貧富の差が比較的少ない「総中流社会」
の形成と全体の経済水準の底上げに成功したが、過度の統制と社会の均質化により経済の自由競争が
阻害され、グローバリゼーションに象徴される新自由主義競争に適応できなかった」という結論を導いた
一部の識者は、肯定・否定双方の観点から、特に2001 年に就任した小泉内閣が大規模な「改革」路線に
踏み出すまでの日本の体制を一部の識者(柄谷行人)は「日本型社会主義」と呼んでいる。もちろん、こ
れはいわゆる伝統的な社会主義イデオロギーの系譜とは無縁かつ異質であり、日本社会党(現在の社
会民主党)や日本共産党はこのような視点を強く否定する。
ページの先頭に戻る
